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 【懐かしい】とは、現実の中に過去を見ること。もう存在しえないものがそこにあるように錯覚すること。脳の古傷。ないものねだり。
辞書を引いてみると、なんでかどうして優しく温かい言葉にとれるその語は、個人的にはトラウマに近いものだとずっと思っている。脳の古傷と称したあたりにそれが反映されているように思える。現実としまい込んだ記憶が化学反応を起こして劇物が生成される様を一番に連想するが、それは一様に薄暗いものと限らないことは一応知っている。そのうえで、今でも懐かしいという語にどこまでもネガティブなラベルを張りたくっている。
 そんな不毛なことを頭の中で反芻しながら、目の前の本棚からピンときたタイトルの背表紙に指をかけた。いつもの癖で、まず後ろの方で出版年度を確認してから冒頭に目を通す。この作家が書いた本は以前二、三冊読んでいるから、舞台設定に抵抗がなければまず問題はない。これが初めて向き合う作家のものならまず話の顛末を確認すべく、全体の残り四分の一辺りを開くだろう。細切れの空き時間にコツコツ読み進めてきた本が中盤になっても盛り上がらず、ハズレだと判明した時のガッカリ感はなかなかの破壊力を持ち合わせている。少なくとも自分は損失を厭わぬ冒険的読書家ではない。ネット上で趣味の合う人のレビューを参考にしながら、その更新を追うようにして次に読む本を選択する。ただ読み散らかすだけなら読書も受け身なエンターテイメントに分類されるが、対象を選ぶところから他人任せだと、趣味・読書と言うのには語弊がありそうだ。かといって、ハンドルネーム・▲▲さんの読んだ本を読むことが趣味です、などとのたまえばただのネットストーカーである。受け身な趣味だろうが、ストーカーだろうが、活字の消化を楽しんでいるには違いないのだから、この際それは端に置いておこう。次に読むのはこれにするとして、他にめぼしい物には出会えずそのまま会計を済ませて店を出た。
 そういえば今何時だろう、と尻ポケットのスマホに手を伸ばすと測ったようなタイミングで振動が伝わってきた。
【着信中・ノブ】
 画面右上の時計を見ると十四時二十分と表示されていた。これは催促の電話だ。
『もしもし、ナオ?お前今どこ?』
「いま、古本屋の前」
 通話の相手には見えないだろうけど、振り返って店の屋号を確認する。白い外壁に少しくすんだ色の日除け、ガラスの引き戸。遠目に見ればカフェと見間違える人もいるかもしれない。中身も少ししゃれていて、外壁よりはいくらかトーンを落とした白色の空間に、背の高い棚が壁に沿って並んでいる。その内側に背の揃わない大小の棚が一見きっちり並んでいるようで無造作に置かれている。店主は(アルバイトかもしれない)三十かそこらの若い男性で、商品をそのままそっくり衣料品に置き換えても営業できそうな雰囲気だ。最近この辺りには、こういったセレクトショップのようなオシャレ?な古本屋がポツポツ増えている。オシャレだろうと埃っぽかろうと、商品はセカンドハンドの本であることに違いはないが。
『なんでお前って、いつも待ち合わせ場所から微妙にずれたところにいるのかね?』
「ただ待っているのは暇なんだよ。大体時間になっても誰も現れないんだから。もう皆そろってる?」
『まったく。もう皆、お前待ちだよ。』
「じゃあ、すぐ行くよ」
『いや、もうそっち向かってるから。古本屋って最近できたあの白いところだろ?もう一歩も動かずそこで待っててくれ』
 言いたいことだけ言い終わったらこちらの返事も待たずに通話は切られた。そこで待てと念押しするのは、目を離した瞬間に単独行動モードに入って集団から消える自分の習性をよく知っていてくれているからだ。
 今日の待ち合わせは十四時にM駅西口で、白い古本屋はそこから歩いて五分ほどのところにある。いつにも増して早めに着いてしまったから、 馬鹿正直に言いつけ通り、店先で立ち尽くし遮蔽物のないまっすぐ伸びる道路の先を眺めていると、見知った顔が談笑しながらぞろぞろやってくるのが見えた。歩道の幅いっぱいに女が三人横一列になって歩いている。その後ろから男が二人。そこに自分を加えた六人パーティで、今はやりのごてごてなパンケーキを食べに行くというのが、今日の招集目的だ。どこからどう見ても大学生のような格好の男女三組が一緒に出掛けるいわばトリプルデート――という言葉か存在するのか知らないが――のように見えなくもない。ただ実際、親しい男女同士がグループになって和やかな空気がいつまで続くのか、想像に難くない。

「ナオ君、おひさし。大学生になっても未だ待ち合わせが困難ってやばくない?」
 やあ、と顔の横で手をひらひらさせて挨拶もそこそこにやばいと形容された。歩道のど真ん中を歩いてやってきた吉田綾乃は、幼馴染でかれこれ十数年の付き合いになる。喋ってから・喋りながら考える、を地で行く彼女は仲間内から失言クイーンの名を欲しいままにしているが、身内相手となるとその発言内容はより無遠慮なものとなる。からかうようにこちらの顔を執拗に覗きこんでくる綾乃の顔をしっしと手を振るって遠ざける。
「うっわ、なによ。私、今日は珍しく一番乗りだったのに。皆が来るまで一人で待ちぼうけてたのに。ナオ君が時間通りに西口に来てたら暇しなかったのにー」
「ああ、綾乃が一番は奇跡的だったな。いつもは待つだけ無駄ってくらい遅れてきて、大体現地で合流するくせに」
 後ろから山崎悠が口をはさむ。人ごみの中でも頭ひとつ抜き出るひょろりとした長身で、見下ろすのに疲れたと、話していても人の顔をろくに見ない。現に今もスマホをいじりながら口だけ参加している。彼も幼馴染で、綾乃よりは少し付き合いが長い。
「惜しむらくはその奇跡的瞬間を誰にも目撃されなかったことよ!なんで今日に限って皆少しずつ遅れてくるわけ!?」
 どうやら待ち合わせ前に古本屋に寄ったのは正解だったようだ。時間通りにやってきたのは綾乃だけで、後のメンバーはこれくらいずらせば皆そろっている頃だろうとアタリをつけて遅刻気味に現れたらしい。これだから、この集まりで時間厳守は馬鹿らしい。
「もういいから、早く行こうや。綾乃はその奇跡を習慣に昇華させてくれ。パンケーキ待ちで俺の胃が雑巾絞りみたいなってるから」
 綾乃の頭を上から抑え込むようにして黙らせて、胃のあたりを擦った吉田大輔は、さあ歩けと残りのメンバーを歩かせた。髪が乱れるわ馬鹿大輔、とその脇に肘を打ち込んだ綾乃は、隣を歩く山崎希の腕にすり寄った。
「のぞみー!あの駄目兄と悠君交換して!」
「悠を長男、大輔君を次男にしたらいいよ。それから綾乃と私は姉妹になろう」
「俺、弟は要らない。特に大輔は要らない」
「悠、前から思ってたけど、お前俺に厳しすぎない?」
 彼ら四人はそれぞれ兄妹で、幼馴染だ。大輔、悠とは同い年、綾乃、希とは三つ年が離れている。同じタイミングで入学と卒業を繰り返すため、小学校以降同じ校舎で過ごすことはなかったが、小学校時代は学年の枠を超えてそれは結構な量の時間を共に過ごした。それほど離れていないそれぞれの自宅から一番近い中学校に通い、高校ではさすがにバラバラになったが。

 賑やかな吉田・山崎兄妹のすぐ横で、興味なさげに道の反対側を眺めていた古性由紀は電柱に向かって歩いていた。
「由紀、由紀。ぶつかるよ」
 声をかけながら二の腕を掴んで進路を修正させると、こちらを見上げた後、瞳が何かを探すようにきょろきょろと動いてから納得したように落ち着いた。
「今日コンタクトじゃないの?眼鏡は?」
「コンタクトはいま切らしてて、眼鏡は出がけに壊しちゃった」
「裸眼でここまで出てきたの?馬鹿だねえ……」
 いやあ、困りましたね、とさほど困った風でもない声音で言う妹に、心底呆れてしまった。日々コンタクト時々眼鏡で過ごす由紀は、自宅ならともかく裸眼で外を歩かせれば今のように障害物に向かって歩くなど造作もないというか。介助者が必要になるレベルの視力で自宅から最寄駅まで歩いて電車に乗り、待ち合わせ場所までのこのこやってきたのかと思うと、ぞっとした。同じくらい目の悪い自分が同じことをしろと言われたら情けないが腰が引ける。
「じゃあ、俺の貸すからかけてなよ」
「直紀はどうするの?見えないじゃん」
「予備があるから。度は違うけど、ないよりましでしょ」
「そりゃそうです。アリガトウ」
 予備の眼鏡を取り出すついでに、今かけている眼鏡をさっと拭いて由紀に渡した。予備は度数が少し弱くて視界は心もとなくなるだろうが、電柱に向かっていく女の手を終始引いて歩くよりは安心だ。顔の幅が違うから、やはり少しずり落ちるようだけどこればかりは我慢してもらうほかない。

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