正午にホテル・カサノヴァで

 八月ももう終わりに差し掛かっているが、じりじりと肉を焼くような強い日差しに加えてアスファルトからの照り返しで、日焼けマシーンが備え付けられた通路の中を延々と歩かされているような気分だ。ただ足を前に進めるだけで、目的地に着いたころにはいい感じのミディアムレアに仕上がっているだろう。これが並木道だというのだから笑える。背の高い木は確かに通りに沿って並んではいるが、その木陰は完全防備の女性たちがズンズンと歩いていて、まさに女性専用木陰という感じだ。アームカバーで腕を覆い、首にスカーフを巻き、サングラスをした上に帽子まで被って、まるで肌を見せることを禁じる宗教のようにも見えてくる。そのほとんどが妙齢の女性で、四肢をさらけ出して現在の気候に適した格好をしているのは若い女性たちだ。さすがに水着と見紛うような露出過多もどうかと思うが、この暑さだ。アナタの選択は正しい、と称えながら夏場の眼福を堪能することにする。
 月に片手で数えられほどしか外出しない僕が、この狂った気温の中で出かけているのは、しばらく連絡を取っていなかった友人が、昨夜急に電話をよこしてきたからだ。明日の昼は空いているか、なら一緒に昼食をとろう、と。学生時代からこの友人は余裕のないスケジュールを提示して誘いをかけてくるやつで、さすがに旅行ともなればもう少し前もって声をかけてくるものだが、食事となるとよくて前日、酷いときには当日、まさに食事の最中に飯を食べようと言ってくるのだ。今回は前日に連絡がきたのでまあよい方ではあった。
 その友人は適当な店を選ぶのが妙に上手く、普段からそんなに外食しているのかと尋ねてみると、料理をする人がいないのだから外に行くほかないだろう、と言う。決して料理ができないわけではないのだが――以前友人宅を訪れた際はなかなか美味しいパスタをふるまってくれた――日課としての料理はしない派らしい。そんな友人が、新しい店が出来たからそこへ行こうと誘うのだ。電話口で、明日の正午にホテル・カサノヴァで、と続けて最寄り駅からのざっくりした道順を聞き取って手帳に記した。ホテルの中に新しい飲食店が入ったのだろうか。ランチタイムとはいえ、ホテルのレストランではその辺のカフェや食堂よりも値が張るだろう。普段食事に金をかけないし、年に数回顔を合わせる友人との食事の場だ、こういう時には少し贅沢してもいいだろう。普段からしたとして、怒る人などいないのだが。
 そろそろ目的地が見えてきてもいいはずなのに、それらしい看板は一向に見当たらない。どこかで道を間違えただろうか。尻ポケットから手帳を取り出すとページの折れ曲がったところを開いてみるも、確認するまでもない簡素な道順で弱ってしまった。手帳をちらちら見ながら周囲を見回していると、ちょうどすぐ側で休憩していたタクシーの運転手が声をかけてきた。
「お兄さん、どこか行きたいところでも?」
「ええ。その、この辺りにカサノヴァというホテルがあると思うんですが、場所をご存知ですか?」
「かさのば、ですか? 聞いたことのない名前ですね。この辺に最近できたホテルですか?」
「いやあ、自分もよく知らないんです。待ち合わせをしてるんですが……」
 それはお困りですな、と同情するような返事をする合間にも運転手は目ざとく次の客を捕捉していた。お役に立てなくて申し訳ない、とひと言断りを入れてきたかと思えば、スーツケースを引きずった旅行客の元に駆けていった。運び先が分からないのではどうしようもないのだから、当然の対応だろう。あまりのスムーズな流れに呆気にとられはしたが。
 地図を解さない男と称されるのはなんだか不名誉な気もするが、約束の時間に、それも食事に遅れていくのは気後れしたので、諦めて携帯電話を取り出した。三回目のコールの後、通話相手は繋がったことを確認する前に既にしゃべり始めていた。
『――んだ? もしもーし? おい、聞こえているのか?』
「聞こえているよ。悪いけど、ちょっと道に迷ったらしくて。案内してくれ」
『昨日道順を教えてやったじゃないか。小学生にも分かる簡素な地図でいい年したお前がなぜ迷う?』
「そう言うなよ。タクシーの運転手にも聞いてみたけど、カサノヴァなんて聞いたことないって言うんだ。それに、僕はこの気温の中汗だくで空腹だよ。電話で道案内してもらって早く昼飯にありつきたいんだよ」
『そこは冗談でも僕との近況報告に花を咲かせたいと言うべきだな。まあ、いいや。今どこにいる? まさか素っ頓狂なところに突っ立っているんじゃないだろうな』
「ここは……アルパカコーヒーの前だ。斜め前にポストがある」
『なんだ、すぐそこまで来ているじゃないか。そのすぐ先だ。話しながらでいいから歩けよ。僕だっていい匂いのする空間で腹を減らしてお前が来るのを待っているんだから』
空腹は人の心をささくれ立たせるものだ。携帯から聞こえてくる友人の声色は終始不機嫌そうで、その空腹具合が伺える。しかし、なんだな。歩きながら腕時計を見ると現在時刻は十一時半。待ち合わせの時間は正午で、友人は既に店に到着していてしかも待ちぼうけているというのだからおかしくなる。 すぐ先だと言われて歩き出したはいいものの、依然ホテル・カサノヴァという建物は見えない。
「本当にすぐそこなのか? 看板とか何も見えないけど」
『左側をよく見ろ。僕がすでに入店しているのに店が無いわけがないんだから』
「そりゃ、そうだろうけどさ……あ?」
『あ?』
 言われるがままに左を向くと横道が伸びていて、その端にポツンとイーゼルが置いてある。立てかけられた黒板にはシャレたフォントで(ホテル・カサノヴァ)と書かれていた。これ以上は無用だと通話を一方的に終了して、ほぼ日陰の横道に入っていく。大して風はないけれど、日向と日陰では雲泥の差だ。建物の中に入れば冷房が効いているだろうし、腹も満たせる。機嫌の悪い通話相手につられるように、機嫌が傾き始めていたが、目的地が見えた瞬間だいぶ持ち直したように思う。
 発見した看板の前まで来てみると、あっけにとられた。ここがホテル・カサノヴァであることは確かなのだが。呆然としていると、中から友人が飛び出してきた。
「やっと来たか!久しぶりだな。半年振りか? 僕はしばらく西で仕事をしていたし、お前はちっとも連絡をくれなかったからな。さあ、飯にしよう。注文は今さっき済ませておいたからな!」
 勢いで話したいことだけ話して、店の中に戻っていこうとする友人の後を慌てて追う。ウェイターを差し置いてテーブルまでずんずん進んで席を勧められた。最近できたというだけあって、店内は隅から隅まで生き生きとしているように見える。真っ白い壁にキッチンを覗けるカウンター、リゾートホテルにあるようなアジアンテイストのテーブルと椅子、その光景はなんというか、レストランのようだった。店の外で既に合点がいっていたが、中に入ればもう疑う余地はない。待ち合わせ場所のホテル・カサノヴァはレストランの名前だったのだ。カサノヴァというホテルがあるわけではなく、その中にあるレストランのことでもなく、(ホテル・カサノヴァ)という店名を掲げるレストランなのだ。道順通りに進んでホテルを探していたのだからたどり着けなかったのも仕方がないとは思うが、どうも腑に落ちなかった。料理を待つ間、店の名前について目の前の男に尋ねると弾けたように笑い出した。
「ああーおかしい!電話で話してるときに何か変だとは思ったけど、ホテルねえ。あ、だからオフなのに会社へ行くような恰好で来たのか? あっはっはっ!」
「どう考えても君の伝達不足だろう。ホテルに併設されているわけでもないのにこんな名前の店、僕じゃなくても勘違いするに決まってる。あと。これは僕の普段着だ。何度も見てるだろう」
「そうだっけ? まあいいじゃないか。こうしてまた再会できたのだから」
 スパークリングウォーターが注がれたグラスを傾けてまた笑うので、なんだかどうでも良くなって同じようにグラスを持ち上げた。まもなく運ばれてくる料理たちはホテルのレストランを思わせる上品な皿ばかりで、それらに舌つづみを打ちながら友人と互いの近況を報告しあうのだった。

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